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巻の三  自民党改憲草案の実態

 「憲法改正によってようやく日本の主権を取り戻すことができる」という自民党の床暖め団体である日本会議の非理屈は、あまりにも極端である。なぜなら、第二次世界大戦後、日本に対する何十年にも及ぶアメリカの内政干渉や数々の密約は、自民党こそが、必死に守り、隠し、実現させ、維持させてきたではないか。

 安倍内閣の振舞いにより、国民との信頼基盤が破壊されたため、もはや内閣を「国」と見なすことはできない。したがって、安倍内閣がこのような内政危機のただ中で改憲に進んでいることは、暴動に限定するのではなく「憲法の定める統治の基本秩序を壊乱する者」どもとしての内乱罪(刑法第77条)そのものである。

 以下、この愚か草案の根本的四分野の著しい問題点に焦点を当てる。

  

一、天皇陛下について

 草案第一条に「天皇は、日本国の元首であり(後略)」とあるように、安倍麻生らは「象徴天皇制」を強引に「元首(君主)天皇制」に変えようとしながらも、同条文に「日本国の象徴」の言葉を残すという、国語上全くの矛盾を開き直った様子で明記している。そして、現行憲法で「天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う。」と記されている条文を、「(前半同一のため略)内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。」(草案第六条の4)に、つまり肝心な「助言」を「進言」に変えたばかりでなく、「承認」の言葉を堂々と削除している。

 「進言」の言葉は「助言」の言葉よりも強いだけでなく、助言と異なって、現に取り掛かっている内容や課題が無くとも、自ら言い出すことができることを含む言葉である。このため、この無礼草案は内閣に、内閣自らが天皇陛下に対して、内容やなすべきことを言い出すことができるという権利を与えている。このように、内閣にこの「進言権」を与えることにより、内閣は天皇陛下を自由自在に利用することができるようになり、さらに「承認」の言葉が削除されているため、内閣は、天皇陛下の国事行為に関して「承認」する必要がない、ということになる。つまり、極端な場合、内閣の進言(強要を含む)に従って天皇陛下が行った行為について、内閣は国民や世界の前で、「知りません。陛下のご一存でおやりになったことです。憲法に則っている我々内閣に、元首を止める権限はありません。」などと主張し得るようになるのであり、内閣の責任や承認事項が記録などで残る現行憲法下と大きく異なって、この乱暴草案の成立により内閣は、確固たる証拠を残すことなく、天皇陛下に責任を負わせ、幕府のように振る舞うことができるようになる。

 

二、国民について

 この愚か草案では基本的人権が大幅に削られている。最も極端なことに、基本的人権を日本国民の永久の権利と定めた現行憲法の第九十七条(最高法規)「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」について、このイラつき草案ではなんと、わずか二文字、それも「削除」と書かれている。これは正に、政権を失った自民党連中が、立憲国の鼓動する心臓をえぐり取ったようなものである。

 さらに、この草案は人権が守られることを保障しないだけでなく、草案の前文に「日本国民は、(中略)基本的人権を尊重する」や草案百二条の1に「国民はこの憲法を尊重しなければならない。」となっているように、国民が人権や憲法の尊重義務を負うことが強調されている。そして、現行憲法で「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」(第九十九条)となっている条文の「憲法の尊重義務」が削除され、草案の内容は、公務員らは憲法の擁護義務のみを負う、となっている(草案百二条の2)。

 これまでの現行憲法で国民が憲法を尊重するだけでなく、擁護する義務をも負っていることは、言い換えると、憲法が守られているかどうかを厳しく問うことをも可能にさせたわけだが、乱暴草案は国民の「憲法擁護義務」を省いている。これがすなわち、「公務員が憲法を擁護しているかどうかを確認する権利」が奪われたことを意味するため、今後、公務員が憲法を守っていないことを受けて国民が公的機関を批判すること、或いは、それらの公務員らの違憲行為を摘示し訴訟を起こすことなどが不可能となってしまう。これは、とうとう、公的機関による人権尊重が全く問われなくなってしまう展開となる。

 この危険な展開について、法の専門家である日弁連(日本弁護士連合会)の元会長・宇都宮健児氏も、より多くの国民に伝わるように、注目された本年7月13日の東京都知事選立候補者共同記者会見において、アベノミクスが失敗で終わったこと、及び、自民党の憲法改正草案で国民の人権が大幅に削られていることを強調し、警鐘を鳴らした。

 しかし、その後の9月26日、臨時国会開会時の所信表明演説において「(これまで延べ百を超える国・地域を訪れ)自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携を深めてまいりました。」との言葉を述べた安倍晋三のように、残念ながらこの世には、甚だしい矛盾、侮辱、冒涜を楽しむ悪しき連中がいる。

 さらに日本における最も極端な変更へと無法に且つ一方的に突進しているその張本人が同演説で、まして、全世界に関して、つまり全世界征服妄想で「一方的な原状変更の試みは認められません。」と発言していることは、実に、わが国を根底から変える大変化が迫り来ることを感じているからこそのことであり、いわば、ねぶりこをしゃぶりながら暴れて物を壊し続けるチビの姿である。

 

三、憲法第9条及び軍事力について

 すでに「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法・平成11年施行)に「国旗は、日章旗とする。」、「日章旗の制式(寸法等)は、別記のとおりとする。」と規定されているにも拘わらず、草案のとおり、安倍麻生内閣はあえて「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。」との内容を新たに憲法に盛り込もうとしている(草案第三条)。そして、国旗の寸法や色彩等(日章旗=日の丸)を明記した国旗国歌法第一条②の内容を省くかたちで草案に条文を新設しようとすることに狙いが隠されている。一般的に日本の国旗を「日の丸」として認識するため、そもそも「日章旗」という言葉に馴染みがない国民は多い。加えて、「日章旗」の言葉で「旭日旗」(きょくじつき)を連想する国民も少なくないことを意識すると、隠し草案にわざわざ「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。」の条文を新設したことに次の意味が含まれていることが分かる。それは、少し時間が経過した頃に、「日章旗で国民はこの旗(旭日旗)を連想するため、その認識に解釈を変更する」旨の閣議決定さえすれば、実際に、日本の国旗を突然、旭日旗に定め変えることができる、というもの。

 したがって、名称が「日章旗」であれ、実際に「旭日旗」であれ、朝日をかたどった日本の軍旗・軍艦旗として広く知られるあの旗が用いられるようになることは、戦後、国民が希求しわが国の基盤となった平和という国家意識を根底から覆すものであり、この旗は、自国民をはじめ、他国民、とりわけアジア諸国に恐怖を煽るものとなり、当然、大反対を招く。

 

 次に、周知のとおり、現行憲法の第九条の1は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」であり、同第九条の2は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となっている。

 ところが、草案では第九条の1として現行第九条の内容のうち、後半が「(前略)国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。」(草案第九条の1)に書き換えられている。このため、「発動としての戦争を放棄する」の文言は、実に美辞麗句としてしか残っていない。

 なぜなら、サンフランシスコ平和条約締結の1951年9月8日、総理であり、全権でもあった吉田茂が同サンフランシスコ講和条約の署名が行われた華やかなオペラハウスを離れ、その日の午後に、サンフランシスコ市のある米軍下士官用のクラブハウスにて、総理としてではなく、一個人として密かに、それも恐らく半ば酒に酔った状態で、あの日米安全保障条約に署名し(正気であった際の講和条約署名と比較参照・資料10、11)、もって、国会や国民、さらには世界をも裏切ってしまった後に、記者の追及に対して、余裕ぶって「条約は一片の紙切れに過ぎない」と答えたその姿と有様を考えると、現代の軍国頭もいざという時に紙切れ扱いの平和条約を忘れ、武器にしがみ付き、戦争のあおり声と奇声を発することは想像に難くない。

資料10 1951年9月8日午前の吉田茂による署名(サンフランシスコ講和条約署名)

資料11 1951年9月8日午後の吉田茂による署名(日米安保条約署名)

 つづけて、現行憲法第九条の「国の交戦権は、これを認めない。」の一文は乱暴草案では完全に削除され、上述の第九条の1をうけて「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」(草案第九条の2)となっている。そして、新設の条文及び内容として、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」(草案第九条の二の1)と規定されている。

 

 この隠し草案を注意深く読むと、次の恐ろしい悪夢観点が見えてくる。上述の草案第九条の1「国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。」にある「放棄」は、条文の構成及び国語上、あくまでも「国権の発動としての戦争」に関してのみの言葉であり、「武力による威嚇及び武力の行使」をも放棄することを意味する文では決してないことに注意しなければならない。さらに乱暴草案において、現行憲法の「国の交戦権は、これを認めない。」が削除されていることは、決して、日本の自衛隊員が海外で戦う「アメリカ追従集団的戦闘義務」(集団的自衛権)の行使容認のためのことばかりではない。なぜなら、先の法案強行採決等から分かるように、現行憲法や民意をこれほど冷淡に踏みにじることができる安倍麻生とその手下から成る内閣には、そもそも誠の「国際紛争の解決」の意欲はないのであり、また、既述のとおり「放棄」が「発動としての戦争」にのみかかっているため、今後勿論「武力による威嚇及び武力の行使」が可能となってしまうわけである。さらに、発動としての「戦争」ではなく、発動としての「武力による威嚇及び武力の行使」を認めることを巧みに包み隠すために「自衛権の発動を妨げるものではない。」(草案第九条の2)と記し、「発動自衛」という言語矛盾を生み出してしまった。

 つまり、乱暴草案のこの条文から、内閣が言葉によって他国を挑発することはもちろん、さらには、日本が一方的に他国に対し発動としての武力的威嚇をすること、そしてそれにより国家間に緊張や摩擦を引き起こすことはこの草案によって、なんと、正当化されているのであり、その火種が原因でついには戦争が勃発してしまうことも、大いにあり得るのである。したがって、本年10月上旬、北朝鮮のある幹部による亡命の件について、実際に我が国のあるテレビ番組において、同人の日本への亡命にあたっては日本での受け入れ態勢が整っている、という日本の責任者の発言が報道されたことに対し、北朝鮮が当然、復讐で応えようとすることも想像に難くない。ところが、常に言葉をも悪用しようとする連中は、そのような類の戦をも「自衛戦」と位置づけてしまうであろう。

 

 さらに、昨年9月19日に強行採決された戦争法にすでに含まれている非常に悪しき観点、それも、これまで全く問題提起されてこなかったその観点は、その国際平和支援法の第13条及び第14条に、一般国民をも家畜のように戦場に駆り立てることを正当化する内容が含まれていることである(詳細はこちら)。この、隠された極悪観点を念頭に、乱暴草案の前文の「日本国民は、国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り(後略)」、及び、草案第九条の三の「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」とを認識すると、実に、既にこの憲法改悪草案に徴兵制度の基盤が盛り込まれていることが露となる。

 

 また、この隠れ草案により、なんと、日本政府自体が軍人に操られてしまうこと、いや、内閣自体が軍人から成る、ことまでもが現実と成り得るほどである。なぜなら、現行憲法の第六十六条の2に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と明記されているものを、安倍麻生らは、「内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。」(草案第六十六条の2)との文言に変えた。ここで、「文民」の言葉を削除するほどの意図があること、及び、わざわざ「現役の軍人であってはならない」と記していることに焦点を当てると、「現役の軍人ではないが、文民でもない人間」の意味を隠し含めたことが分かる。そして、「現役の軍人であってはならない」と規定しているとは言え、軍人引退後、何年の経過期間を過ぎた人が政界入りできる、という引退から政界入りまでの期間を定めない限り、政界への軍事的影響を防ぐことができなくなる。このため、この草案の条文内容では、数日前まで現役軍人だった者が突然、大臣に就任する事態も想定し得るのである。そして、この軍国草案において、わざわざ「文民」の言葉を消したことにより、逆に、果たして文民が閣僚として内閣の一員になることができるだろうか、という疑問が残るのであり、むしろ、軍人としての経歴を有することが国務大臣や総理大臣の条件になっているとしか、解釈することができないほどである。

 

四、国会について

 現行憲法第二十条の1には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と明記されているが、たくらみ草案の第二十条の1では肝心な「又は政治上の権力を行使してはならない」が跡形も無く削除されている。このため、今後、なんと、オウム真理教のような、いや、より強烈なカルトがわが国の国会を埋め尽くすこと、さらには、国会議員の服装に関する規定も無いなか、ある集団は紫色の衣服、ある集団は黄土色の袈裟姿で、また別の集団は韓服のような服装で、そして、国会内で線香を焚く者、靴を脱ぎヨガの体勢をとる者、鐘を鳴らしヴェーダを朗読する者、旭日旗に非常に似た金色のシンボル旗を振り回す者、シリンダーハットをかぶり杖と赤い布を片手に煤けた目で動き回る悪魔崇拝の者ども、など様々な儀式じみた振舞いをもって、わが国を前代未聞の霊的戦に巻き込もうとすることは、実に想像に難くない。そしてこれは全て、相変わらず安倍晋三の裏に存在する冒涜者ムンが作り、国際的に多くの犯罪に関与しているカルトである統一教会(現在「世界平和統一家庭連合」)が招いている展開である。

 また、この草案により、国民が常に望む国政の透明性もさらに極端に欠けてしまうであろう。なぜなら、現行憲法第六十三条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、(中略)答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。」と明記されているものを、イラつき草案は「内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りではない。」(草案第六十三条の2)に変えている。すなわち、総理張本人や国務大臣らが己の勝手な都合のために、国会や国民に対する説明義務をいとも簡単に放棄することができる内容となっている。

 また、現行憲法第九十八条に、「この憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と、国民の盾となる非常に重要な内容が明記されているわけだが、もし、わが国日本の司法が中立的であり、三権分立が機能していれば、国民の訴訟に応える形で、もうとっくに、前述の特定秘密保護法や戦争法を「違憲として無効」と位置付ける判決が世に出されているはずである。しかし、本年8月1日に公開した「仇討嘆願」と題するホームページに詳細を記したように、とりわけアメリカに対する厳しいスタンスをもつ国民を相手とする場合、司法は内閣や行政と完全に結託してしまう、悪しき現状なのである。(「仇討嘆願」はこちら「http://adauchitangan.wixsite.com/ada3abe-aso-tanigaki   」)

 

 最後に、草案の最も邪悪な観点は、曖昧のままに盛り込まれている「緊急事態」の内容であるが、違憲内容を止めるために国民に与えられたその盾としての条文が現行憲法の第九十八条であるなかで、草案において、その盾が、この新設の緊急事態云々の条文に入れ替えられていること、及び、その新設条文が草案の第九十八条として、まさに国民主権を窒息させる条文となっていることは、実に皮肉であり、安倍麻生らの腹黒さを表している。

 そして、実に曖昧で粗雑なこの緊急事態云々に関する条文により、総理は司令塔・NSCに続き、誠に身勝手且つ実に容易く、一つの宣言で、脱皮し、独裁者となり得てしまう。すなわち、草案九十八条の1には「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、(中略)緊急事態の宣言を発することができる。」と規定され、同条の2に、その宣言の国会承認が事後であっても構わない、とまで記され、さらに第九十九条の3に「何人も(中略)当該宣言に係る事態において(中略)発せられる国その他の公の機関の指示に従わなければならない。」と、国民に絶対的服従の義務が課せられている。

 つまり、政府の暴挙や軍国主義的進みのために国民が著しい不安を覚え、例えば、戦争法案反対デモのように大規模なデモを主催するなら、それがどんなに平和的なデモであろうと、国民の必死の訴えを「テロ同然」(2013年11月29日付投稿)と公言した石破茂の発言からも分かるように、今後、何の根拠もなく、すなわち、首相の気まぐれと君主妄想の独裁主義により、この緊急事態宣言という手段をもって、首相が独りで全ての権力を一気に掌握することができるようになってしまう。そしてNHK(日本放送協会)は、前もって本年1月に妙なシリーズ「激動の世界」を放送し、もって、このように国民に強引に鼻輪が通されることを正当化してしまった。

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