top of page

巻の一 古代史の概観 

 

 

 学校現場では「仏教は中国から日本に伝来した」との偽りを学び、日本史上最大の謀反(むほん)は歴史教科書にも載らず、完全にタブー視されている。また、「乙巳の変」(いっしのへん)がその謀反者の本家に終止符を打つ出来事であったにも拘らず、多くの歴史家は逆にその乙巳の変を「クーデター」と位置づけ、国民の歴史観を狂わせている。

 

1.日本列島に潜入した氏族

 皮肉なことに「古墳時代」に分類され、且つ、学校の授業から省かれているわけだが、古代日本は、その統治構造から分かるように、文化・宗教の両面において「随神の道」(かむながらのみち・以下「神道」(しんとう)という。なお、神道の起源は決して自然崇拝ではなく、祖先崇拝も古代神道には存在しなかった。)の伝統や思想を国家基盤とし、神祀りという神聖なお務めを担う天皇陛下の下で、高い文化、高い技術を誇る高度な文明の国であった。しかし、五世紀の終わりごろ、この国日本にて強権をふるおうと、百済王朝(くだら・当時の朝鮮)との縁をもち且つ仏教の色を帯びる朝鮮系(韓国系)の集団が日本列島に渡来、いや、潜入してきた。

 しかし、注意すべきは、彼らが仏教の色を帯びてはいたものの、強欲と権力略奪や武力精神という乱暴と死者崇拝を中心としていたことであり、これを本来の「Buddhism」と見なしてはならないことである。つまり、Buddhismと区別する必要がある。そして、Buddhismと大きく異なり、このような起源をもつ日本の「仏の教え」は、一般国民のレベルでは「ネクロラトリー」(necrolatry・死者教)となっているため、以下、「仏教」ではなく、根まで黒いネクロ主義、すなわち「根黒主義」と呼ぶ。

 神道を基盤とした古代日本(「倭」は当時、中国や朝鮮が日本を侮辱する色合いで用いたため、用いない。)に潜入してきたこの根黒主義者は、「蘇我」(そが)氏と呼ばれるようになったが、その祖代の親子の名が「韓子」(からこ)と「高麗」(こま)と、いずれも朝鮮名であったことからも、蘇我氏が朝鮮半島から入って来たことは明らかである。

 やがて、影響力を拡大させていった蘇我氏は、その娘らを送り縁戚関係を築くなど様々な方法により早くも朝廷に入り込み、古代日本国家の財政を握るほどになった。そして、ついに552年、第29代欽明天皇(きんめい天皇)の時、百済の聖明王が朝廷に仏像や経論を送りつけ、蘇我氏を中心にこの「新教」が日本に伝わった。しかし、当然、数百年に亘り神道思想に基づいて国家を統治してきた朝廷、及び、神道祭祀を担当していた中臣氏(なかとみし)をはじめ、その基盤に基づいて警察権、司法権、軍事、教育を司っていた物部氏(もののべし)や大伴氏(おおともし)などの神道派氏族と、この崇仏かぶれの新教の受容を主張した蘇我氏とが対立するようになった。

2.二大勢力の摩擦

 家臣の中で最高位の「連」(むらじ)姓(神別・元初より帝の側近氏族に与えられた姓)を賜っていた中央豪族としての中臣氏、物部氏及び大伴氏は互いに団結し、552年の百済仏像贈与に始まった死者新教の受容の可否をめぐって、蘇我氏(連姓ではなく、渡来族に与えられた「臣」(おみ)姓だった)に立ち向かった。

 とりわけ中臣氏を代表して中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)と天皇の側近としての執政者を意味する大連(おおむらじ)に任ぜられていた物部氏を代表する物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)は、死者崇拝が汚れであること、死者新教と関わりを持つことやその像を尊崇することなどが天つ神のご意向に反するものであること、並びに、受容した場合に神の怒りを受けること、を天皇陛下に申し上げた。しかし、蘇我氏は根黒新教の受容を天皇陛下に強く迫り、神道派氏族に牙をむけるようになった。そして、蘇我氏を代表して蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が欽明天皇に「西の国の諸国は皆、礼拝しています。日本だけがそれに背くべきだろうか。」などと迫った。このため、欽明天皇はためしに、蘇我稲目に仏像を礼拝させた。すると、神道派氏族の言葉どおり、やはり疫病が流行し多くの人民が苦死してしまった。この事態を受け、中臣鎌子と物部尾輿は、覚悟をもって、疫病の原因が蘇我氏の崇仏であることを天皇陛下に申し上げた。この時、欽明天皇は彼らの言葉と注意を受け入れ、仏像を捨て、寺を焼くように仰せられたため、物部氏をはじめ、役人はそのご命令に従い、仏像を捨て、寺をあますところなく焼いた。これにより、疫病は止んだ。

 次に、572年に第30代敏達天皇(びだつ天皇)が即位した。この御代に、なんと、稲目の息子であり大臣となった蘇我馬子(そがのうまこ)は、敏達天皇の許可なく仏殿を建て、仏法を広めはじめていった。しかし、585年に馬子は病にかかった。ところが馬子は道を改めようとせず、占いをはじめ、敏達天皇に崇仏の許可を求めた。そして、敏達天皇が許可を与えてしまったことにより、馬子が石像を公然と礼拝し始めた際に、またもや大変な疫病が流行り、多くの臣民が亡くなってしまった。このため、中臣鎌子の後を継いだ息子の中臣勝海(なかとみのかつみ)と物部尾輿の後を継いだ息子の物部大連守屋(もののべのもりや)が敏達天皇に「なぜ、我々の申し上げたことをお聞き入れにならないのですか。欽明天皇の代と同じように、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに、蘇我氏が仏法(根黒主義)を広めたことによるものに間違いありません。」と厳しく強調し、父親同様に、天皇家をはじめ国家をその危機から導き出そうと全力を尽くした。これを受け、敏達天皇も「これは明白である。早速仏法をやめよ」と命じられ、物部守屋は兵を連れ、自ら寺に赴き、その塔を切り倒させ、寺、仏像、仏殿に火をつけて焼いた。

 しかし、敏達天皇の後に即位した第31代用明天皇(ようめい天皇)は、欽明天皇(在位期間33年)や敏達天皇(在位期間14年)と異なって、自ら崇仏の進みを選んでしまった。そして、残念ながら、既に病に倒れていたにも拘わらず、物部守屋と中臣勝海の勧告を受け入れようとせず、そのわずか四カ月後に早死にした。蘇我馬子に接近した用明天皇が2年という最も短い在位期間で亡くなったことは、蘇我氏にとり予想外の痛手であり、長期にわたった神道派氏族との対立はさらに激化し、武力行為にまで発展していった。

 そして蘇我氏は、神祇祭祀担当の中臣氏をはじめ、天皇の下で国家統治を任され大連に任ぜられその名誉ある地位に就き世襲として天皇と共に国を治めていた連姓の物部氏や大伴氏がその新教としての根黒主義を受け入れないことを理由に、ついに彼らを討ち、587年には祭祀の責任者であった中臣勝海を、そしてその数カ月後には大連であった物部守屋とその家族をも亡き者にし、乱暴精神と国を乗っ取る邪心を悉く実行してしまった。

 

3.血まみれクーデター

 神道派氏族と根黒主義者との対立の真っただ中の同587年に、第32代崇峻(すしゅん)天皇(資料3)(名は泊瀬部皇子・はつせべのみこ)が即位した。しかし、新教者蘇我氏が国家の財政を握り、神祀りの責任者中臣勝海や大連の物部守屋とその家族を滅ぼし、元よそ者として権力を掌握していったため、崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)をはじめとする蘇我家の横柄と勢力野望を憤り、根黒主義とその精神を非常に懸念するようになった。

資料3 第32代崇峻天皇

 しかし、わずか5年後の592年、謀反の準備が整ってしまった。なんと、蘇我氏の非道を憤っていた第32代崇峻天皇が、この蘇我氏の手により、むごたらしく暗殺されてしまったのである。その上、崇峻天皇は殺害されたばかりでなく、埋葬されることもなく、その亡骸は、蘇我の連中によってその日のうちに遺棄され、なんと、御陵(天皇の墓所)も造られなかったほどであった。

 日本の天皇制が125代続くと言われるなか、殺害され、埋葬もされず、御陵も造られなかった天皇陛下は、崇峻天皇が日本史上唯一である。

 

 そして、その直後に始まった蘇我政権とその新教色の濃い身内政権によって720年に編纂された『日本書紀』(日本最古の歴史書と言われる)さえこの謀反を認めている。

 このように、朝鮮(南)半島から根黒主義を持ち込み、死者崇拝を受け入れない相手を暴力的武力的に根絶していったこれらの者どもは、その血まみれの手で、それまで数百年続いていたわが国の天皇制、政治基盤、文明に止めを刺し、まさに、日本国を乗っ取ってしまったのである。

4.価値観と構造の破壊

 崇峻天皇暗殺の中心的実行犯は、蘇我馬子であり、その近い共犯者の一人は、やはり同じく蘇我の血を引く厩戸(うまやど・いわゆる聖徳太子)であった。名前にも反映されているように、この犯罪者らの野獣的な姿勢が表れている。そして企てどおり、馬子はすぐに自らの姪を天皇の位に就かせた。これが、前代未聞の初の女帝、推古天皇の即位である。

 神道的価値観からすると、天皇陛下の聖職が神祀りであることから、女性が即位することは決して許されることではなく忌まわしいことであったが、もはや神道派の代表者に、根黒主義者の悪行を止める手立ては無かった。このため、7~8世紀まで何人もの女が天皇の座に座り込むという悲惨な展開となってしまった。さらに、馬子の謀反仲間であった厩戸が推古天皇の執政となり、朝廷全体を新教に引き込み、当時の司法基盤をも全面的に破壊していった。そしてこの時、愚かなことに今なお日本最初の憲法と言われる、あの「17条憲法」が日本国民に押し付けられてしまったのである(604年)。

 それまで上述の神意識と神道的価値観を国家基盤とし、共同体でその価値観を守ってきた臣民に、正反対の死者崇拝を中心としBuddhism外観をもつ17条憲法の順守義務が課せられたことを意識すると、心喰い虫のように朝鮮から入って来た蘇我氏とその新教がいかに攻撃的であり、17条憲法がいかに古代日本国民の精神を狂わし、基礎から破壊していったかが分かるであろう。

 

 大学を含む教育現場では完全にタブー視されているが、次の代表的条文(現代語訳)から成るこの17条憲法によって、神道に手錠がかけられてしまったのである。

そして、なんと、この血まみれクーデターを実行した張本人らが、第1条「和を何よりも大切なものとし、逆らわないことをのり(根本)とせよ。(後略)」という、自らの行為の真反対の内容を強調し出した。

 また、第3条「君主(天皇)の命令をうけたならば、必ず謹んで従え。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。(後略)」及び、第12条「(前略)国に二人の君主はなく、人民にとって二人の主人などいない。全ての人民にとり、王だけが主人である。(後略)」の内容と強調とにより、著しい偽善を働き、日本国民に完全服従を強要している。

 さらに、第2条にあるように「あつく三宝を信奉せよ。三宝とは、仏・法理・僧侶のことである。(後略)」と、それまで神意識をもって死を汚れと認識し、且つ、平和と命を重んじてきた国民に対し、Buddhismかぶれの死者崇拝を絶対的義務とした。

 同時に、第10条の内容により、このとんでもない展開と謀反連中に対する国民の怒りが非常に広範且つ根強いものであったことが分かる。そのため、その正当な怒りをも絞殺するために、根黒連中は憲法という強制手段をもって、日本国民の精神破壊を目的として第10条「心の怒りを絶ち、顔に出る怒りを棄てなさい。他の人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。(中略)自分独りでこれだと思っても、みんなの意見に従って行動せよ。」をも定め、民一人ひとりの怒りを禁じた上に、自分の意見の確信をも持たないことを義務とし、国民を悉く苦しめた。

 この内容は、皆の肩に重くのしかかり、「出る釘は打たれる」として、現在に至る。

 この17条憲法の制定とともに、蘇我氏の手によって、古代日本に関する歴史書(国記や天皇記)や珍宝を保管していた朝廷宝庫に火が放たれ、わが国の貴重な朝廷図書の全てが焼失してしまった。そして、その後も歴史の書き換えや史実ねじ曲げ執筆がつづき、やがて、8世紀初頭に、それもやはり女帝であった元明天皇の下で、神の存在を受け入れず神意識を貶す神道に対する憎悪書に他ならない『古事記』が編纂され、8年後の720年には偏った歴史観が表れる『日本書紀』が世に出た。

 このように、古代日本の文化、精神、宗教、歴史も多大な悪影響を受けてしまった。

 

5.数世紀が過ぎ

 この時より、神道は形骸化(形ばかりのもの)してしまい、現在、日本人の精神として勘違いされるほどになった神仏習合説(思想)が、これらの新教主義者によって一方的に主張されるようになった。

 つまり、神道の遺産は、巴紋のごとく、渦にのみ込まれてしまった。八幡神の存在はその一例であり、「神霊は分霊できる」との主張や勧請の名のもと全国に4万4千もの八幡社を建造したことなどにより、神道は商売や権力拡大手段として利用されるようになり、時代が下ると「社僧」という肩書で僧侶が神社に堂々と入り込むようになり、特徴的な神道習慣や言い伝えなどは根絶されてしまった。また、まさに「武将の陰に僧あり」と言われるほど、崇仏かぶれの乱暴根黒主義者であった「僧侶」の多くは戦国武将らの政治顧問となり、背後から大名同士の敵対心を煽り、同胞の血の海を招いた。

資料4 孝明天皇

 また、幕末の黒船来航と開国を迫るアメリカに屈さなかった将軍徳川家慶や、陛下の背後でアメリカと不平等条約を結びわが国をアメリカに売ってしまった井伊直弼の勝手な振舞

いを非常に怒った孝明天皇陛下(資料4)と、米欧根黒主義者の組織的行動に危機感を募らせ国民的英雄となった坂本龍馬氏(資料5)の国想いと強い単独行動精神は、根黒組織にとり最も不都合なことであった。

 つまり、孝明天皇陛下と坂本直柔(なおなり)(龍馬)氏が暗殺されたこともこの流れの延長線であった。

資料5 坂本龍馬氏

 そして幕末より欧米のマキアヴェル(君主の姿を描いた文書は、美辞麗句として「君主論」と和訳されてしまったが、その中身は単なる「乱暴論」である。以下、この訂正を定着させるため、「君主論」ではなく、「マキアヴェル」(資料6)或いは「乱暴論」という。)連中と縁を持ち、「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と漏らしていた岩倉具視も、明治4年 (1871年)の使節団としての渡米により、多くの若者をこの根黒主義に染めてしまった。そして、明治時代の初代総理大臣となった伊藤博文が組閣した年が、なんと明治18年であったこと、言い換えると、討幕後に明治政府の基盤を据え、明治16年までの長期間にわたり実権を握りつづけた人物が岩倉具視であったこと、及び、それにより明治政府の中心に、マキアヴェル色を帯びた米欧人らの影響が甚だしく入り込んだことはともに、教育現場においても一切取り上げられない史実である。

 また、残忍と評判の近代陸軍の創設者と言われる軍人・山縣有朋が、釈雲照という僧侶を尊敬していたこと、及び、自身の命令で大勢の若い国民を戦場に駆り立てたこと、並びに、その精神で神社の条件を満たしていなかった東京招魂社を、罪滅ぼしと己の安らぎのために「靖国神社」に改名したこと、及び、第二次世界大戦時に現人神の説で神道や昭和天皇を悪用した史実もまた、この根黒主義者がその時々に神道悪用色や軍国主義色を帯びる観点を裏付ける。

 とりわけ、当時、若者を洗脳し、首相を含む10人の内閣関係者を殺害するように命じたその首謀犯であった井上昭(日召)がBuddha教かぶれの僧侶であったこと、及び、要人殺害教唆等の罪として無期懲役を言い渡されていたその過激的犯罪者井上が、なんと、誠に赦し難いことに近衛内閣の協力によって8年後の1940年に出所できたこと、さらにその後、軍国主義者であった近衛文麿がこの同じ罪人を近衛内閣の裏の中心的アドバイザーとしたことも、決して忘れてはならない。

 

資料6 乱暴論執筆のきっかけとなった暴君ローマ法皇アレクサンドロ6世

 このように、わが国日本の流れを決めるようになってしまったものが、Buddha教かぶれの根黒主義であり、それが軍国主義と合体していたものであったにも拘らず、第二次大戦の戦争責任は、世界の前で、都合よく、神道に負わされてしまった。

 そしてこれに続き、終戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって神道指令が出されたとはいえ、同時に日本の再建を阻止するためにアメリカの占領政策によってこの根黒精神が生き残り発展する環境が作られ、なんと再び神道を悪用するように神道政治連盟という改憲推進団体が活動できるようになったばかりでなく、何の神道精神もない者が同団体の国会議員懇談会会長であると同時に、オウム真理教のようなカルトである統一教会(現在「世界平和統一家庭連合」)を陣地とするその同じ安倍晋三によって、今、「新戦」流れとなってしまっているのである。

bottom of page